| その3 二ノ丸水路と銀座の柳 |
慶長十年(1605)、将軍職を世子・秀忠に譲った徳川家康は、翌年の慶長十一年(1606)に自らの居
城を駿府に置く事を定めます。『當代記』という史料の慶長十一年(1606)十月六日の記述には、
「城場の事、今の城より南河野邊と云う所に移され、来年普請有る可と也」とあり、当初は『河野
邊(現在の常盤公園の南西、葵区川辺町周辺)』に新たに築城される予定であったと記されていま
す。この理由について小和田哲夫氏は、共著『家康と駿府城』の中で「駿府城の場所では賤機山か
ら城内が見透かされるからであったと思われる」と説明されています。一方で、安倍川を利用した
運河で駿府城と駿河湾を繋げる計画であったからという説もありますが、残念ながら明確な理由を
示す史料は今のところ見つかっていません。
全国的にみると、四国・愛媛県の今治城や香川県の高松城といった港に隣接した城や、愛知県・岡
崎城、福岡県・柳川城など川や水路によって舟での往来が可能な城も多くあり、もしかしたら駿府
城の築城計画にもそういったグランドデザインが描かれていたかもしれません。結局『河野邊』へ
の築城案は、当時の安倍川の氾濫域にあるという理由で退けられ、今川館があったと思われる地に
家康が天正期後期(1587〜89年頃)に築城した城を南北東に拡張する計画で落ち着きました。前回紹
介させていただいた中堀に続く水路は、大規模な水運活用への思いの断片が遺された史跡であると
も考えられています。
さて、今回ご紹介させていただくのはその続きのお話ですが、この水路が中堀から城の中枢である
本丸を囲む内堀へとさらに延びている事をご存知でしょうか。静岡市民文化会館前から中堀の石垣
を見ると、鉄柵で塞がれた引っ込んだ場所に気付くかと思います。ここが内堀へと続く『二ノ丸水
路』の入口であり、駿府公園側からは良好に保存された遺構を間近で見学する事が出来ます。
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@中掘より、駿府公園側の水路入口を望む |
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A駿府公園内に残る水路遺構 |
遺構を間近に見るため中央体育館前の北御門跡から駿府公園(かつての二ノ丸、本丸)に入り、紅葉山庭園の前を通って東御門方面へと歩いてみましょう。紅葉山庭園入口を過ぎたところに小さな木橋があり、石垣で護岸された水路を渡ります。これが『二ノ丸水路』の遺構であり、中堀から近年わずかに発掘された内堀(本丸堀)へと続く全貌を目にする事が出来ます。橋のたもとの案内看板には、水位調整の為「本丸堀からの水を外に流す目的で築かれ」と説明書きされていますが、往時この地(二ノ丸)に米蔵が立地していた事から、水運利用の目的で築かれたという説もあります。ただ、実際に遺構を観察してみると、小舟が通れる位の幅は確保されていますが、ほぼ直角に4回折れ曲がっており、小舟であっても水運利用にはかなり不便な印象を受けます。又、城郭構造のセオリーからいうと、この4回の折れ曲がりには水路を伝った外敵の侵入を防ぐという目的があったと考えられます。中掘側には水門が設けられていた事からも、やはりこの水路の主目的は内堀と中堀の水位調整と考える方が自然のようです。いずれにしろそれを証明する確固たる史料は残されていないため、はっきりした事は分かりません。見学者それぞれが遺構を見ながら大御所時代に思いを馳せ、歴史のロマンを感じつつ自由に想像してみる事が良いかもしれません。
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B折れ曲がる水路の様子(本丸側より) |

C折れ曲がる水路の様子(二の丸側より)
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さて、もう一度水路を渡る木橋のたもとに眼を移してみましょう。一本の柳の木と小さな案内看板に気付くはずです。案内看板には、かつて駿府に銀座(銀貨の鋳造所と役所)が置かれていたという縁により、東京銀座の柳がここに植樹された由来が書かれています。
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D二ノ丸水路脇に植えられた銀座の柳 |

E柳の由来を書いた案内看板 |
この看板には、徳川家康が慶長十一年(1606)に銀座を駿府に開設し、慶長十七年(1612)に江戸(現在の東京)の銀座の地に移した事が書かれています。それでは、駿府の銀座はどこにあったのでしょうか。駿河区に『駅南銀座』、清水区に『駅前銀座』『清水銀座』などといった商店街がありますが、これらは明治以降の東京・銀座の繁栄にあやかって付けられた名称です。これは静岡に限らず全国各地に広がった一つの流行であり、地方都市を旅するとかなりの確率で『○○銀座』と名付けられた商店街のアーケードを眼にします。
そんな中、史実として駿府には、江戸より先に正真正銘の『銀座』が立地していました。
当時の貨幣取引による慣習は、東日本が金本位制、西日本が銀本位制がとられていた為、銀座の周辺には現在の銀行に当たる両替商が多く店を構えていました。そういった環境で町名の付けられた場所が駿府九十六ヶ町の一つ『両替町』であり、現在の両替町一丁目(七間町と本通の間)の通り沿いに『駿府銀座発祥の地』と書かれた石碑が建てられています。ちなみに江戸(東京)の銀座もかつては『新両替町』と呼ばれ、『銀座発祥の地』碑は、銀座二丁目の『ティファニー』前の歩道に建てられています。(つづく)
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F葵区両替町一丁目『駿府銀座発祥の地碑』 |

G東京都中央区銀座二丁目『銀座発祥の地碑』 |
<参考文献>
小和田哲夫他『家康と駿府城』静岡新聞社、1983
作者不詳『当代記 駿府記』続群書類従完成会、1995
静岡市教育委員会編集・発行『大御所徳川家康の城と町』、1999
静岡市経済局商工部経済事務所編集・発行『徳川家康と駿府大御所時代』、2008 |
文・写真/静岡市民文化会館 指定管理者静岡市文化振興財団共同事業体 川嶋秀和
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